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2007年4月12日 (木曜日)

裁判所の考える経験則とは何ぞや

裁判である事実を証明する場合、その事実そのものを直接証明する証拠がなくとも、周辺の関節事実をいくつか証明し、それらの事実があれば経験則上要証事実の存在が推認される場合、その事実は立証されます。

例えば、AさんがBさんの持ち物を盗んだという事実を証明したい場合、自白・目撃証言・防犯ビデオの映像などがなければ、周辺事実からの立証をすることになります。

Bさんの持ち物がなくなった事実

Aさんがそれを近い時期に所持していた事実

Aさんの犯行の機会や動機の存在

といった事情があれば、事実の証明はなされたといえるでしょう。

ところで、この間接事実と主要事実をつなぐ経験則は裁判所の事実認定の歴史の積み重ねの中で、一定のかたちをなしたものがあります。

a,b,cの間接事実があればdの主要事実の存在を認める、といったものです。

下級審の裁判所は裁判例に反した判決を書きにくい立場にありますので、ほとんどの裁判は裁判所の固定された経験則に従った判決をします。

ところで、裁判員制度が始まると、当然、a,b,cの間接事実があってもdの主要事実の存在に疑いをもつ裁判員は出てくるでしょう。

裁判長としては裁判所の事実認定論に従った判決しか書きたくないでしょうが、裁判員制度は、一般人の率直な意見を裁判に反映させるものですので、裁判長の心証を裁判員におしつけるようになっては全く制度の意味をなしません。

裁判所に蓄積された旧来の経験則や事実認定論と、裁判員のフレッシュな意見とをどう調整していくかは、裁判員制度の施行にあたって重要視すべき点だと思います。

これとは逆に、民事ではしばしば、被害者救済のために特異な経験則が持ち出されることがある気がします。

地裁判決は厳密な事実認定や要件事実に固執するよりも、結論の妥当性を第一に考える、と言われていますが、結論を導くために強引な経験則を持ち出される場合が時々あり、依頼者への説明に窮する場合があります(そういう判決は控訴審でひっくりかえりやすいですが)。

経験則は所詮結論を導くための理屈の一つにすぎませんし、他方で、判決結果について当事者が納得するかどうかの重要な分水嶺を構成する場面でもあります。

地裁裁判官は、この二つの側面をもう少しうまくつかいわけてほしいと思うことが「時々」あります(あくまで大多数の地裁判決は、非常に綿密に検討された立派なものであることを付言します)。

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